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六代目神田伯龍

神田伯龍を巡って

大猿でも、小猿でも…… 寶井馬琴先生と

六代目寶井馬琴先生が亡くなりました。

晩年NHKの収録が木馬亭でありまして、この時は伯龍は「蘇生の五平」をやりました。

馬琴先生を掴まえて、

「お前、今日は何をやるんだ?」

本当は「鯉の御意見」なのに、間髪入れずに馬琴先生、あの調子で、

「ええ、本日は伯龍十八番の小猿七之助をば勉強させていただきます」

伯龍の返しがまた良かった!

「小猿でも大猿でもキングコングでもなんでもやってくれ」

 

 

伯龍の高座

tyakutouweb

 弊社が神田伯龍の独演会を手掛けたのは、2001年から没年の2006年まで、たったの5年間です。しかし、この5年間にどれだけ多くのことを学んだか知れません。         

 神田伯龍の巧さは会話、語彙、比喩に現れておりました。それは講談本来の特徴とも合致するものです。さらに連続物の出来ない奴はダメ。ダレ場を聞かせてこそ講釈師、と本人も任じていましたがストーリーのメインではない部分も伯龍は捨てずに演じました。好きな講談を効率よくまとめることなど自身が許せなかったのだと思います。生前は、正直退屈だな、こりゃホントにダレ場だなと感じた部分も、今録音で聞いてみると物凄く魅力的でやっぱり巧い人でした。

 神田伯龍国立楽屋001

 短躯でしたが姿勢が良く、高座では大きく見えました。袴も良く似合いました。

「講釈師や噺家が背中を曲げて前屈みなるなんてとんでもないこと」という考えで、酒席でも膝を崩しませんでした。

 着物の趣味は女物で仕立てたり、どちらかというと派手で、若い頃に大阪で修業したせいもあるのかなと思いました。

立川談志師匠と……

伯龍が亡くなる前年の2005年8月15日の独演会にサプライズで出演してくださいました。

全く人の言うことを聞かない伯龍に談志師匠は手こずっておられました。

 

打上げの鰻屋では4時間近くも話が尽きませんでした。全部芸の話で御両所の該博な知識と情熱に感動しました。

「一つ聞いておきたいことがあるんだ。兄貴(伯龍のこと)の好きな映画は何?」

談志師匠の問いに、伯龍「うーん、『ガス燈』と『カサブランカ』だね」

エーッ、イングリッド・バーグマンが好きだなんて想像もつかなかった。

神田伯龍立川談志web

 

談志師匠の十八番の「小猿七之助」は伯龍が伯治時代に譲ったものです。

このことは談志師匠も御著書で明示しています。

伯龍に言わせるとホントは教えたくなかったんだが、

「談志が小島政二郎(伯龍の名跡を当時預かっていた)夫人にまず最初に頼んで、断れない状況を作ってね」

昭和43年8月15日の日付の稽古テープが現存します。冒頭に談志師匠が日付と神田伯治から教わる旨を吹き込んでいます。

 

しかし、この頃「談志師匠は五代目伯龍のSPレコードに心酔してレコードから覚えて持ちネタにした」

という第三者による記述が散見されます。これは酷い誤謬曲解であることをはっきりさせておきます。

心酔したのは間違いないでしょうが、だからと言って勝手にやっちゃうような方ではありません。

そういう礼節に厳しかった談志師匠に対しても失礼だと言わざるを得ません。

 

2006年7月のNHK講談大会に伯龍は「野狐三次、木っ端売り」で出演。

秋になってテレビ放送をご覧になった談志師匠が電話を下さいました。

「他とまるでトーンが違うでしょ。あれを世話講談というんです」

その時、伯龍が死の床にあること、これが最後の放送になるであろうことをお伝えしました。

「癌だったのか……」

「江戸言葉の流れに身を委ねる心地よさ」 吉川潮

「江戸言葉の流れに身を委ねる心地よさ」 吉川潮

 いささか旧聞に属するが、昨年十月、古今亭志ん朝師匠が亡くなった折、新聞、週刊誌等に的はずれな追悼記事が目立った。曰く、「寄席の灯が消えた」、「古典落語の終焉」などで、まあ、これは名人と言われる落語家が死んだ時の常套句だから無視するとして、中でも私を怒らせたのは、「江戸言葉の継承者がいなくなった」という記述だった。

冗談言っちゃいけねえ。こいつぁ、伯龍を知らねえな。

私はいささか伝法な口調で独りごちたものだ。江戸言葉なら伯龍がいる。講釈好きなら誰でも知っている。一度でも伯龍を聴けば、完璧な江戸言葉をしゃべる芸人がいるということがわかったはずなのに。書いた奴はモノを知らない。

私は大学生時代に立川談志の『小猿七之助』を聴いて、そのオリジナルを聴いてみたくなって伯龍の会に出かけた。だから特別な講談ファンでないし、生粋の伯龍贔屓と比べたら横道から入った半端な贔屓である。それでも、伯龍の素晴らしさを認める気持ちは同じで、聴くたびに、楷書のような江戸言葉の美しさ、心地よさ、歯切れよさを堪能している。

つい最近、一龍斎貞水が人間国宝に選定された。それはそれで喜ばしいことだが、お上が担いでくれなくても、心ある講談ファンが神輿のように担ぐ伯龍こそ、講談界の宝だと思う。そういう意味で、この「伯龍世話講談」の会は意義のある会と言える。

本牧亭という講談の拠点がなくなって早十二年、私は哀惜の念を込めて、『本牧亭の鳶』(新潮社)という小説を書いた。その中で、主人公の一龍斎鷹山に講談の魅力をこう語らせている。

「目を閉じて講談を聴いていると、言葉の流れに身を委ねる心地よさとでもいうか、なんとも言えずいい気持ちになったんです。笑わせなくとも人をいい気分にさせる芸なんだと、改めて講談の魅力を認識しました」

伯龍の講談はまさにこの魅力なのである。

世話講談の味 桂米朝

世話講談の味 桂米朝

 私は伯龍さんを伯梅時代からきいているのです。昭和十八年、駕篭町の寿々本(芸人連中はカゴスズと呼んでいた)という寄席で、時々講談大会があった。そこで前座に出ていた伯梅さん。ネタは「木村又蔵の初陣」であったことを記憶している。当時、そんな若手の講釈師が珍しかったので強く印象に残ったに違いない。

 当時の看板どころであった、伯鶴、貞吉、芦州なんて人が並んでいて大入り満員でした。

トリに先代伯龍が出ると拍手と共に「世話物!」「世話物を頼みます」なんて声がかかった。

 先代はニヤリと笑って「宵から義士伝とか五郎正宗とか、随分タメになる話が並んでますから、私の方はタメにならねえ話を・・」というと拍手大喝采でした。あのきびしい戦時中でも講談の世界などは、まずうるさくはなかった。八丁堀の聞楽や深川高橋の永花亭などの講釈場では、客数は少く老人が多かったが二十年ぐらい時代が逆戻りした感じがしたものです。永花亭など竹で仕切った常連席がまだありました。

 そこで先代の演じたのが、今日出ている河内山の質店からゆすり場まで、仕事を引き受けた河内山が相談にゆく山田佐仲の家のくさったような雰囲気がよく出ていて、あの時代にこんなものを聞かしてもらった感激は今でも残っています。当時、私は若い一学生でした。

 先代の年齢を既に超えたであろう当代の「刺青奇偶」は、私は聞いておりませんが、結構なものに違いないと存じます。

 「小猿七之助」「野狐三次」「いかけ松」など、本当に若い人に引きついでもらいたいとつくづく思います。

 小金井芦州さんも御病気の由、昔の講釈場で叩いた最後の人、神田伯龍さんはもっともっと大事にされて良い人です。

 ただ一つだけ注文があります。つねづね「講談でひとつの世界を作りあげるにはどうしても四十分ほしい」というご主張は、私にはよく解るし、それぐらい聞きたいのだが、今の時代、三十分、いや二十分でも一つの感動を与えて頂きたいと思うのです。無論、その工夫はされているのでしょうが、敢えて妄言を呈したく、失礼お許し下さい。

 当日の盛会を祈ります。

 ***

 書いている内にどんどんいろんなことを思い出して思わぬ長文になってしまいました。

スペースをきいていなかったので、長くなったが、無理ならカットしてください。

志ん朝君の死などがあって、おそくなりました。このあと私はかなり多忙になりますので急いで書きました。よろしく        米朝

宮岡様

*弊社制作の第一回伯龍独演会(2001年12月2日)に桂米朝師匠が寄せてくださった文章です。

hakuryuu&beichou

2003年6月14日 伯龍米朝二人会(国立演芸場)