世話講談の味 桂米朝
私は伯龍さんを伯梅時代からきいているのです。昭和十八年、駕篭町の寿々本(芸人連中はカゴスズと呼んでいた)という寄席で、時々講談大会があった。そこで前座に出ていた伯梅さん。ネタは「木村又蔵の初陣」であったことを記憶している。当時、そんな若手の講釈師が珍しかったので強く印象に残ったに違いない。
当時の看板どころであった、伯鶴、貞吉、芦州なんて人が並んでいて大入り満員でした。
トリに先代伯龍が出ると拍手と共に「世話物!」「世話物を頼みます」なんて声がかかった。
先代はニヤリと笑って「宵から義士伝とか五郎正宗とか、随分タメになる話が並んでますから、私の方はタメにならねえ話を・・」というと拍手大喝采でした。あのきびしい戦時中でも講談の世界などは、まずうるさくはなかった。八丁堀の聞楽や深川高橋の永花亭などの講釈場では、客数は少く老人が多かったが二十年ぐらい時代が逆戻りした感じがしたものです。永花亭など竹で仕切った常連席がまだありました。
そこで先代の演じたのが、今日出ている河内山の質店からゆすり場まで、仕事を引き受けた河内山が相談にゆく山田佐仲の家のくさったような雰囲気がよく出ていて、あの時代にこんなものを聞かしてもらった感激は今でも残っています。当時、私は若い一学生でした。
先代の年齢を既に超えたであろう当代の「刺青奇偶」は、私は聞いておりませんが、結構なものに違いないと存じます。
「小猿七之助」「野狐三次」「いかけ松」など、本当に若い人に引きついでもらいたいとつくづく思います。
小金井芦州さんも御病気の由、昔の講釈場で叩いた最後の人、神田伯龍さんはもっともっと大事にされて良い人です。
ただ一つだけ注文があります。つねづね「講談でひとつの世界を作りあげるにはどうしても四十分ほしい」というご主張は、私にはよく解るし、それぐらい聞きたいのだが、今の時代、三十分、いや二十分でも一つの感動を与えて頂きたいと思うのです。無論、その工夫はされているのでしょうが、敢えて妄言を呈したく、失礼お許し下さい。
当日の盛会を祈ります。
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書いている内にどんどんいろんなことを思い出して思わぬ長文になってしまいました。
スペースをきいていなかったので、長くなったが、無理ならカットしてください。
志ん朝君の死などがあって、おそくなりました。このあと私はかなり多忙になりますので急いで書きました。よろしく 米朝
宮岡様
*弊社制作の第一回伯龍独演会(2001年12月2日)に桂米朝師匠が寄せてくださった文章です。
2003年6月14日 伯龍米朝二人会(国立演芸場)
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